にちぶんにっき

早稲田大学日本語日本文学コース室のブログです。

本歌取のこと―音声文芸としての和歌

 ごきげんよう

 早稲田日文では、学部生、院生、先生からなる研究会(学生研究班)がいくつかあります。私は和歌の研究会に出ています。

 新古今研究班という名にふさわしく、今期は藤原定家による『新勅撰集』を読んでいます。『新勅撰集』とは、『新古今和歌集』の後、藤原定家が一人で編んだ勅撰集です。後堀河天皇の命で作っていたのですが、完成を目の前にして後堀河天皇崩御…。悲嘆にくれた定家はこれまでの草稿本を焼いてしまいます…。そこで、後堀河朝を支えてきた当時の貴顕、九条道家九条良経の息子・左大臣)が、かつて後堀河天皇に提出していた『新勅撰集』のラフスケッチを探し出し、再び定家に編纂の命を与えたのでした。

 さて、雑四の歌に、こんな歌がでてきました。

  前関白家歌合に、名所月 源家長朝臣
いづこにもふりさけいまやみかさ山もろこしかけていづる月かげ(1277)

(試訳)どこにおいてもふり仰いで、いまは見るのだろうか三笠山。西の唐土へ向いて出ていく月。

源家長といえば、『新古今集』編纂の事務局長をつとめた人です。この歌は、『新勅撰集』の主導者、道家主催の歌合(「名所月歌合〈貞永元年〉」)で詠まれた歌とあります。「名所の月」を歌に詠んだのですね。

 百人一首を知っている人であれば、この歌を読んで、なにか既視感のようなものを覚えるかもしれません。そう、阿倍仲麿が故郷をおもいつつ唐土で詠んだ

あまの原ふりさけ見ればかすがなるみかさの山にいでし月かも(安倍仲麿)

これの本歌取りだなということがなんとなくわかります。

 本歌取りとは、先行の和歌(本歌といいます)の場面や表現を取り込むことで歌に奥行きなどをもたせる表現技巧ですね。その場の人々と共有されている知識を用いることで、31文字という限られた情報量を乗り越えようとする営みと言えます。歌論によっては、本歌を土台にして、本歌とは違う世界へ飛躍せねばならないと言われたりします。

 でも、自分の知ってるハナシが、表現に取り入れられているのを見るだけでも、快感に近い面白さを感じること、ありませんか?あ、知ってる知ってる!って。私はサンサーンスの「化石」という曲をきいてこういう面白さに気づきました(曲の中に「きらきら星」のフレーズが入ってるんです)。

 この歌もそういう面白さがありますよね。

 ところで、この歌は歌合の歌ということですが、和歌ってどうやって発表されたんでしょう?現代の歌合といえば、角川が主催する学生短歌バトル(http://www.kadokawa-zaidan.or.jp/news/2019/02/000436.php)がありますが、平安鎌倉時代にはまだパワーポイントはありません。

 和歌の発表は専ら声で行なわれました。和歌を五、七、五、七、七の句に区切ってよみあげるのです。各句の末尾を伸ばし、句と句には間がとられる独特の作法があったようです。

 声というメディアの特徴は、巻き戻しできないところにあります。和歌は上から下まで順番に読み上げられたのです。同様に、和歌の解釈・理解も初句から結句へむけてなされていたと考えることができます。

 研究班の兼築先生は、この歌(「いづこにも…」)を上から読んでいくとして、どこで本歌取りのスイッチが入ると思う?と言います。上から読みあげてみましょう。

 

いづこにもーーーーーーーーーーーーーーーっ

……。

ふりさけいまやーーーーーーーーーーーーーーっ

……。ん?ふりさけ…?

みかさやまーーーーーーーーーーーーーーーーっ

 ……あ、もしや?

もろこしかけてーーーーーーーーーーーーーーっ

(確信)

いづるつきかげーーーーーーーーーーーーーーっ

なるほど!

 

始めから本歌取りの意図は見せず、徐々に明らかにしていき、最後には確信をもって歌が聴ける構成となっています。もはや安心感すらありますね。

 「本歌取りのスイッチはどこでバチバチっと入るか」。この視点に立つと面白いかもしれません。

 さらに、この歌の面白さは、単に本歌を歌に取り入れただけ、ではありません。もう一度仲麿の歌と並べてみましょう。

あまの原ふりさけ見ればかすがなるみかさの山にいでし月かも(仲麿)

いづこにもふりさけいまやみかさ山もろこしかけていづる月かげ(家長)

二つの歌はどこで月を見ているでしょうか。

 本歌の仲麿の歌は、唐土で詠まれ、月を媒介として東の日本を向いています。一方で家長の歌は日本の地にいて、月を媒介として西の唐土を向いています。「ああ、あの月の出どころが三笠山か」という仲麿に対して、「そう、この月は三笠山から唐土へむかうのさ、今もね」と詠む。本歌と本歌取りの歌でまなざしが交錯する。いわばアンサーソングですよね。

 家長の歌が、「いまこの場」を軸としていることにも注目したいですね。仲麿の和歌世界を、歌合の場とつなげるのがこの歌と言えましょう。こんな歌出されたら、バイブスが最高潮に達しちゃいますね。

 歌が発表された時の反応が判詞に残っています。

「ふりさけいまやみかさ山もろこしかけて」といへる、漢家本朝をかけて月影いたらぬ所なくつかうまつる由、満座褒美、勝と為す。
(試訳)「ふりさけいまや三笠山唐土かけて…」とある歌は、中国、我が国にわたって、月は至らぬところなく照らすのだという内容。その場の皆がこれを褒めたたえた。この歌を勝ちとする。

ほんとにバイブスが最高潮に達してますね。(笑)

 

新古今研究班は毎週木曜日18時すぎからやってます。

 

※和歌の引用は日本文学web図書館『新編国歌大観』による。