にちぶんにっき

早稲田大学日本語日本文学コース室のブログです。

いまの一当は、むかしの百不当の力なり、百不当の一老なり。

こんにちは。波留です。
寒さも増し、街ではクリスマスや年の瀬の雰囲気も高まるこのごろですが、研究でお疲れの方も多いのではないでしょうか。
文学部の卒業論文は、先週末が提出日でした。そして、文学研究科の修士論文提出日はついに来月に迫りました。


今日のブログの題名は、

いまの一当は、むかしの百不当の力なり、百不当の一老なり。

これは、曹洞宗を開いた道元禅師のことばです。


仏道を求めても、一向に真実の道が得られない。しかし、あきらめずに教えに従い修行していくと、やがて真実が得られる――。

「百不当」とは、たとえれば、弓を百回射ても一向に当たらないこと。
ようやく当たった「一当」は、それまでの百回の外れを積み重ねたからこそのもので、それが「百不当の一老なり」ということばに表わされます。
この「老」は、年をとることというより、老練の老で、経験を積んで生み出された熟練さと捉えられます。

成功には、失敗の積み重ねと、失敗してもあきらめないことが必要です。
さらに、ただの「一当」でなく「一老」と言うには、「数撃ちゃ当たる」ではいけません。失敗のたびに試行錯誤することで、成功につながっていくということでしょう。

このことばは、「一当」よりも、「一当」を「一老」たらしめるための「百不当」の大事さを説いたものと考えられます。
その意味では、「努力は報われる」という前向きなことばというより、「報われるように努力しなさい」という修行の重要性に重点があることばなのかもしれません。
しかしどちらにしても、努力の積み重ねがやがて目標にたどり着くということは含意されていると思います。

修士論文を執筆されているみなさん。これまでの失敗や試行錯誤は、必ず修士論文の完成につながるはずです。あとひとふんばりすれば、自ずから「一老」は出来上がると思います。体調にだけ気をつけて、今の調子でなんとか走りきってくださいね。


それでは、毎日寒いので、論文を書いていらっしゃる方も、そうでない方も、みなさまご自愛ください。


(仏教のことばはさまざまに解釈されますが、今回のブログは私なりの解釈でお伝えいたしました。道元禅師のことばの出典は『正法眼蔵』です。)